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【法話】一寸先は闇でいい ①

一寸先は闇

 

最近、日本各地で災害や事故が次々と起こって物騒ですね。被災地の方々には心よりお見舞い申し上げます。

まさに一寸先は闇。どこで何が起こってもおかしくないですから、明日は我が身かもしれません。

それは昔も変わらないと思いますが、今はとても便利な時代になって、ほとんどのことが予定した通りに進みます。

数か月先の約束も手帳に書いた通りこなせるし、地球の裏側に旅行に出かけるのでも飛行機でほぼ決まった時間に目的地に到着することができます。

でも便利さに甘んじてばかりいると、突発的な事態に遭遇した時が一番弱く、たちまちパニックになってしまいます。

人生だってそうです。なんとなく生涯の設計図が出来上がっていると思っていても、突然の出来事のせいで全ての計算が狂ってしまい、生きる力さえ失ってしまうことがあります。
そんな境遇に置かれはじめて私たちは、確かなものなど何一つない中をかろうじて生きているという現実をまざまざと突き付けられます。

生活が便利で豊かになったのはいいことですが、その陰ではなおさら多くの不安がつきまとう時代になったような気がします。

 

昔であれば、不安を抱える人々の前に偉大な宗教家が現れて、進むべき方向に導いてくれたでしょう。

しかし今では、どうも宗教の力が衰えて精神的な支柱が失われてしまったように思います。

それもまた現代社会が抱える不幸の一つだといえます。

僧侶である私が「みなさん、こっちに進みましょう!」と言ってみても、振り返ったら誰もついて来ていない、ということになるわけです。いや、それは宗教の力が衰えたせいではなく、私自身の力量のなさですね(反省…)。

 

ただ、そんな現代にあっても、マインドフルネスなどの瞑想が東西問わず世界的にちょっとしたブームになっています。

そして、日本では特にその源流ともいえる禅に関心をもつ人が急増しているように感じます。

自坊の坐禅会でさえ毎回お堂に入りきれないぐらいの人が集まりますから本当です。

そんな光景を目の当たりにすると、禅はまさに現代人の心を救う希望の光のようにも思えてきます。
では、先の見えない不安な時代に禅はどんな教えを説くのでしょう。立派な禅僧が多くいらっしゃるのを差し置いて私が申し上げるのもなんですが、はい、次の小見出しの通りです。

 

看脚下(かんきゃっか)~脚下を看よ~

 

昔、中国の宋の時代に法演(ほうえん)という禅師がいました。

ある晩、弟子たちをつれて歩いていると、急に突風が吹いて提灯の灯が消えてしまいました。あたりは真っ暗闇です。

するとすかさず法演は弟子たちに向かって「お前たち、どうやって歩くか?」と尋ねました。

師弟の間柄ですから、ただ夜道をどう歩くかという単純な問いかけではありません。禅の修行者として、先の見えない人生をどう生きるかという大問題に他なりません。
そこで園悟克勤(えんごこくごん)という一人の弟子が「足元を見ます」(看脚下)と答え、師の法演は彼を認めたそうです。

 

人生先が分からないのであれば、どうやって生きるべきかと頭の中であれこれ理屈をこねてもはじまりません。

ただ一歩一歩足元を見て歩けばいい、ということです。まったく無駄のない単刀直入な受け答え。あっぱれです。
不安多きこの世の中を歩く場合も、希望の光を探し求めるより、まずは足元を見ることが大切ではないでしょうか。
ところがどうでしょう。

つい私たちはせわしない生活の中で、先のことに気が焦ってソワソワしたり、過ぎ去ったことに引きずられてクヨクヨしたりして、今立っている足元がお留守になってしまっているのではないでしょうか。
「随処作主(ずいしょさしゅ)、立処皆真(りっしょかいしん)」(随処(ずいしょ)に主(しゅ)と作(な)れば、立つ処皆真(まこと)なり)という禅語もあります。

「随処作主」とは、どんな局面でもその場の主人公になりなさいという意味です。言い換えれば、「今この場所にいなさい」ということです。
そう言われると、「いや、もうすでいますけど…」と思うかもしれません。

確かに身体はここにあります。

しかし心はどうでしょう。

あっちいったりこっちいったりフワフワと彷徨っていませんか。

自分の身体が椅子にどっしり腰を下ろしていても、坐っている感触をちゃんと味わっているでしょうか。

スーハ―と息を吸ったり吐いたりしていることを感じているでしょうか。

たぶん指摘されて改めて、ああ身体があるんだ。呼吸しているんだと気づいたんじゃないでしょうか。

こんなふうに今この場所にいる自分に鈍感になって、心と身体がバラバラになってしまっているのです。
そして心の中はというと、今ではないいつかのこと、ここではないどこかのことばかり考えています。

「なんでこんなことしなきゃいけないんだ」「自分には向いていない」「もっといい人生があるはず」なんて思って目の前のことに真正面から向き合わず、脇役的な気持ちになってしまっていませんか。

 

考えれば簡単なことですが、私たちは今この場所にしか立てないのです。

気に入らないからといって今の一歩を飛ばして未来の一歩を踏むことも、時間を逆戻りして過去の一歩を踏むこともできません。ましてや、あっちのほうがいいといって他人の立っている場所と取り替えることもできません。
冷たい言い方に聞こえるかもしれません。

でも見方を変えれば、今立っているこの一歩は過去の自分も未来の自分も他人も踏むこともできない唯一無二の一歩であり、他と比べようがありません。

「完全無比」という言葉があるように、比べられないというのは、それ以上のものはない完全な姿だということなのです。 

 

それなのに、あっちがよかった、こっちがよかったと無駄な比較で神経をすり減らして、せっかくの最上の場所を台無しにしてしまったら、なんてもったいないことでしょう。
「立処皆真」というように、自分という存在は今この場所にしかいないのだから、どこかに真実の理想世界を探しに行かなくても、自分が立つところすべてが真実なのです。

 

②へつづく

 

 

【天台ブックレット#92掲載】

【不許無断転載】

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