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【法話】新しい世界

新しい世界

 

うちの息子が生後数か月の頃、まだ首もすわらず布団に寝たままの状態で突如片方のこぶしを挙げて興味深げにじっと見つめはじめた。

それも起きているときは四六時中だ。

一体何かと思って調べてみると、発達心理学ではハンドリガードといい、自分の身体の存在にはじめて気づいた瞬間なのだという。

キラキラした眼で不思議そうに自分の手を見つめるその純粋は姿に、父親の私にそっくり!と思いたかったが、私なんて自分の手を見ても、「ああ爪が伸びてきたな」くらいしか思わない。

私たち大人は、目の前に世界が広がっていることも、自分が存在していることも、他者がいることも当たり前のことだと思って生活している。

しかし、生まれたばかりの頃は誰もが例外なく、この世界の何もかもすべてに新鮮な驚きを感じたはずだ。

 

そんな息子も今や2歳を過ぎたところだ。俗にいうイヤイヤ期である。

成長とともに自我が発達し、何を言っても反抗して言うことを聞かず、これまでは父親似だと思っていたが、母親そっくりになってきた。

可愛いから許せるものの、右に左にと振り回され、一日が終わるとヘトヘトである。

イヤイヤ期は一般的にはわがままし放題のマイナスイメージがあるが、子どもにとっては大切な成長の証である。

子どもの振る舞いを観察していても、それは決して悪気があってやっているのではなく、この新しい世界がどんなところで、自分とは何者であり、他者とどう関わりを持ったらいいのかということを子どもなりに探求しているように思える。

その探求心たるや真剣そのものだ。タンスのほうに一目散に走っていくかと思うと、私の衣類を全部引っ張り出して部屋中に散らかしたり、食卓の食べ物を握りしめてグチャグチャにしたり、疲れて寝ている私の目の中に指を突っ込んでみたり…。

大人にとっては無意味な(そしてちょっと迷惑な)行為でも、子どもからすれば何事も本気である。それに比べると大人のほうが生き方に本気さがないようにも思えてくる。

 

仏教には心の哲学ともいえる唯識という思想がある。

その研究で第一人者の 横山紘一先生がNHKの「こころの時代」(『唯識に生きる』)という番組の中で、人間の思考のプロセスは、まず「なに」という問いから出発し、次に「なぜ」と原因を追究し、そこで判明した内容を踏まえて「いかに」するかを結論するのだといい、幼児期の子どもはまさにそういう思考のプロセスによって成長するのだが、大人になると「なに、なぜ」と問うことを忘れてしまい、「いかに」生きるかということに悩み考え込むことが多いと仰っていた。

 

確かに大人の世界は「いかに認められるか」「いかに成功するか」「いかにお金を儲けるか」などとハウツーばかりに目を向けて、そもそも自分とは何か、なぜ生きるのかという問いかけを日常あまりしない。

だから自分が本気で何がしたいのか分からず、他人の評価ばかり気にしてあれこれと情報に振り回されてしまうのだろう。

 

お寺で運営する幼稚園で子どもたちと触れ合っていると、彼らが本来具えている計り知れない力に驚くことがある。

入園式から間もない4月初旬の頃。まだ集団生活に慣れない年少の子どもが2人いた。

保育室に入ることを頑なに拒み、下足室に座り込んで泣き叫ぶばかり。

そのうちの一人の子は涙も枯れ果てたのか、下駄箱の隅に引っ込んで、茫然とした表情で横たわってしまった。

こうなったら何を言っても聞いてはくれない。

そこで、その子のことは一旦放っておき、もう一人の子の隣に寄り添うように坐った。

そして、きっとお母さんが恋しいのだろうなと思い、しばらく様子を見てからその子に「お母さんってどんな人なの?」と尋ねると、泣きながらも大好きなお母さんのことをいろいろ話してくれた。

そうこうしているうちに、その子は何かを決意したかのようにすっと立ち上がり、下駄箱の隅で横たわる子どものほうに行き、「さあ行くよ」と声をかけて手を伸ばしたのだ。

すると、寝ていた子も「うん!」といって起き上がり、二人仲良く手をつないで私を残したまま園庭のほうに遊びに行ってしまった。

 

私はただお母さんのことを尋ねただけで、まさかこんな展開になるとは予想だにしなかった。

もしここで私が「早く**したら」などと「いかに」を押し付けていたらこうはならなかったと思う。

幼稚園に馴染めないのは気が小さいとか臆病だからということではない。

新しい環境に対して「なに、なぜ」という疑問があまりに大きくて受け止めきれないのだ。

それだけ探求心が強いということでもある。

それがお母さんのことを話したのをきっかけに、子どもの中でこの現状を「いかに」しようかという力が湧いたのではないだろうか。

 

このように子どもには大人の思いもよらぬ「なに・なぜ・いかに」のプロセスを編み出す力を持っているのだ。

大人もかつては探求心溢れる子ども時代があったのだ。

ありふれた世界、見慣れた他者、どうせこんな自分、そんな風に思うことがあれば、もう一度、新鮮な眼で「なに、なぜ」と探求してみたら、本気で生きられる「いかに」の道が見つかるかもしれない。

 

 

【『天台ブックレット』第87号掲載】

【不許無断転載】

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