本気の育て方
本当の気持ち
仏教詩人といわれ「念ずれば花開く」でも知られる坂村真民にこんな詩がある。
本気
本気になると
世界が変わってくる
自分が変わってくる
変わってこなかったら
まだまだ本気になっていない証拠だ
本気な恋
本気な仕事
ああ
人間一度
こいつを
つかまんことには
前住職である父の書斎でたまたま見つけた彼の詩集を開いたら、偶然この詩が目に留まったのである。
胸にグっとくる内容というより、今の私には胸が締め付けられる気分になった。
というのも、つい先日のこと、妻から「ねえ、あなた、いつ本気出すの」と言われて背筋が伸びるような体験をしたばかりなのだから。
日々のせわしない生活の中で次々と押し寄せる仕事を懸命にこなしてはいるものの、本気で取り組んでいるかと問われると自信はない。妻の鋭い目にはごまかしがきかない。
「この歳になっても芽が出ない、まだ努力が足りない、まだまだ本気出してないな、ああ、こんな人生でいいのか…」と自己否定のスパイラルに陥って気が滅入ってくる。
ただ、仲間を増やすわけではないが、私ばかりではなく読者の皆さんだってそうなんじゃないだろうか。
「そこのアナタ、本気で生きてますか?」といわれて、「はいっ!」と即答できる人はきっとそういないだろう。
本気というと手を抜かず100パーセント全力投球で頑張るという意味で使われるのが一般的だと思うが、それはなかなかハードルが高いことである。
しかし、本気にはもう一つ「本当の気持ち」という意味もあるのだ(嘘じゃありません。『大辞林』でちゃんと確かめたのだから)。
必死に努力してもどうしても力が出ないことだってある。そういうときは無理に何とかしなきゃと焦ってもうまくいかない。
今やっていることに対して本当の気持ちがあるのかどうか、もう一度確かめてみることだ。
自分を偽っていたら力を出そうにも出てはこない。
自分の正直な気持ちにしたがってこそ自ずと本来の力が湧いてくるものだ。
それはあくまでも自分自身の問題である。他人からどう評価されようが関係ないのである。もちろん妻の評価も。
とはいっても、この社会はとかく本当の気持ちをなかなか出しにくい環境だ。
人の顔色を窺って何が正解か推し量り、どう評価されるかということばかりに過敏になり、それによって自分の価値が決まる。
そういう社会では自分の本心は一番奥のほうに閉まってあって、本当の気持ちが出せないどころか、本当の自分は何を感じ、何がしたいのかも分からないぐらい鈍感になってしまっている。
最近、忖度という言葉が流行ったが、政治の世界ばかりではなく、社会全体が忖度ムードになっているように思える。
もちろん他者の期待に応えようとする気持ちは「おもてなし」文化を誇る日本の美徳ともいえるので一概に否定すべきことではないが、どこかで窮屈な思いをして自分の心をすり減らせ、欲求不満を募らせているような気もするのだ。
いい子の定義
思えば子どもの頃はもっと自由気ままに本当の気持ちにしたがって生きていたはずだ。
他人の評価にさらされたり、無理に誰かのご機嫌とりなどしたりせず、目的にも成果にも縛られず、朝起きて「さあ何して遊ぼうかな」と居ても立ってもいられず、夜は夜で「明日はどんなことをしようかな」とワクワクして眠れず、ただ自分の好きなことをして過ごしていただろう。
私も小学生の頃はなぜか割りばしや空き箱などでモノを作るのにはまり、勉強などそっちのけで日がな一日工作に没頭し、ごみ箱を漁っては使えそうなものを集めて何を作ろうかと頭の中で空想に耽っていた。
それで何か特別な知識や技術が身についたわけではないし、作品が誰かに評価されることも学校の成績向上につながることもない(だいたい作った作品群は再びゴミとして処分される運命にあった)。
振り返ればただの時間と資源の無駄づかいであったといえる。でも、ただ純粋にのめりこんでいたあの時期こそ、なんの偽りもない本当の気持ちで生きていたなと思うのである。
しかし自分が親になって子どもに接すると身につまされることがよくある。
2歳半ばのウチの息子はとにかく好奇心が旺盛で、特に大人がヒヤヒヤするような危ないことが大好きである。
まさに今もタンスの引き出しに器用に手足の指をかけて上によじ登ったかと思うと足を滑らせ落下し大泣きしているところだ(しばし執筆中断…)。
そういう時、「だめ!」「あぶないよ!」とつい指図してしまうものだが、子どもの立場からしてみれば自分のしたいことをいちいち制限されてばかりでさぞかし窮屈なのではなかろうか。
もちろん危険なことや人の迷惑になることはやめさせないといけないが、その一方で親があれこれ口出しをするのは、子どもが折角本気でやろうとしている気持ちを台無しにしてしまっているようにも思える。
時々ふと考えるのだが、「いい子」の定義って一体何だろうか。
日常の場面でよく「あら、いい子ね~」という場合は、大抵は素直で聞き分けがよく、お行儀よくしっかりご挨拶ができるときなどに使うだろう。
つまり、大人っぽいことをする子が「いい子」とされるのだ。
だとすると、そうでない腕白で行儀が悪く聞き分けがない子は「わるい子」なのだろうか。
子どもには子どものありようがあるのだから、そうやって大人の立場でレッテルを貼ってしまっては、子どものありのあままの生き方を否定してしまうことになるだろう。
結局、「いい子」というのは、大人にとって都合のいい子ということであり、子どもの自主的な思いを抑えて、大人の価値観に押し込めてしまうことなのである。
大人の言う通りに我慢させることは一見いいことで、それが教育やしつけと称される。
それが必要な場合もあるが、まずは子どもの本当の気持ちを受け止め、可能な限り子どもの思いを発揮させてあげたらどうだろう。
それは過保護だといわれるかもしれないが、子育てには相当な体力、忍耐力、そして財力が必要であるから、自ずと物理的な限界が必ずあるので、やり過ぎるぐらいできればむしろ立派なことではないかな(そう考える私自身、もしかすると過保護に育てられたのかも…)。
児童精神科医の佐々木正美氏は、過干渉と過保護との違いを明快に分けて解釈している。すなわち、過保護とは「子ども自身がのぞむことを過剰に与えること」。過干渉は「親がのぞむものだけを与えること」だという。
そういう意味において過保護は心配することではない。
避けなければいけないのは過干渉のほうで、子どもは親への依存心が強まり、自立心が育たなくなってしまうのである。
過保護と過干渉とはつい混同して考えがちで、子どもをたくましく育てようとする親ほど過保護になることを恐れ、かえって過干渉になってしまうケースが多いようだ。
しかも過保護と違って過干渉は際限なく親の都合で子どもの望みを制限してしまうから恐ろしい。
それだと好奇心いっぱいの子どもの世界が欲求不満だらけのつまらない世界になってしまうと佐々木氏は警鐘を鳴らしている。
②へ続く
【『天台ブックレット』第88号掲載】
【不許無断転載】