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【法話】幸福なんていらない②

結果にコミットしちゃいけません!

 

もちろん悟り体験を否定するつもりはありません。

体験したことのない私が語る資格はありませんが、

それは真実の世界を垣間見るような素晴らしい境地なのかもしれません。

人を騙す目的でないかぎり、そういう体験をした人はその現象を正直に語っているのだと思います。

 

でも、悟り体験を幸福の終着駅だと思って追い求めていると、かえって迷いを深めるのではないでしょうか。

悟り体験をしたからといって特別な存在になるわけではないと思います。

超能力が身につくわけもないし、自分の抱えている苦悩や問題が消えてなくなるわけでもありません。

借金が消えてなくなることも、突然映画俳優みたいにイケメンになることもありません。

今ある現実は現実でしかありません。

夢から覚めて別世界に行けるわけではありません。虹の向こうのお花畑はないのです。

 

どうも「悟り」という言葉が一人歩きしはじめているように思います。

ではそもそも「悟り」の発信元である仏教ではどう言っているのかというと、

難しい言葉ですが天台の教えで、

「実相外更無別法」(じっそうげきょうむべっぽう:実相の外に更に別法なし)といいます。

あるがままのこの現実の世界のほかに悟りの世界があるわけではないということです。

この世界がすでに悟りの世界そのものなのだから、この現実を否定してどこかに悟りを追い求める必要はないのです。

 

いま生きているこの世界、いま歩んでいるこの人生を、そのままありのままに見ればいいのに、

それをありのままでなく自分の思うままに偏った目で見ようとするから真実が見えなくなるのです。

 

私たちの社会はどうも不幸を嫌うあまり幸福に偏りすぎのように思います。

「どうしたら幸福になれるの?」「あなたの幸福度は何点?」「幸福になれる**セラピー」。

そんな言葉が飛び交っています。

私が偏屈なだけでしょうか。

そんなに幸福、幸福っていわれると、幸福でなきゃいけないんですかって逆に問いたくなります。

そもそも幸福は数値で測れるのでしょうか。

順位を決めて人と比較したりするものなのでしょうか。

なんだか幸福が現代人のステイタスを飾る商品みたいになっているような気がします。

 

それこそ、「結果にコミット!不幸なあなたも二か月でこんな幸せに!」

なんてテレビコマーシャルでも出てきそうです。

もしそんなに幸福の結果にコミットしたいのであれば、

これから素晴らしい商品が続々と開発されるかもしれませんよ。

 

最近は脳科学が急激に進歩していますから、

悟り体験をしている脳の働きを科学的に分析して、人工的にその体験を再現することだってできそうです。

それこそ大手電機メーカーがスイッチをポンと入れたら誰でもゲーム感覚で悟れちゃいますなんていう「悟りゲーム」を売り出したりして。

でも、それってどうなんでしょう。

悲惨な事故に遭ったり、悲しい出来事が起こっても、「このゲームで悟ればいつだって幸せです!」なんてことになったら、とても恐ろしい気がします。

麻薬や覚せい剤で現実逃避するのとどこが違うんでしょう。

 

私たちは不幸な自分から解放されたいばっかりに、

かえって幸福に縛られ幸福の奴隷になってしまっているのではないでしょうか。

やっぱり幸福の結果にはあまりコミットしないほうがよさそうです。

念のために言いますが、私はライザップの敵ではありませんからね。

いまはポッチャリお腹ですが、二か月後にはムキムキに変身しているかもしれません!

 

ギッコンバッタンは止まらない

 

経験的にお分かりのように、

人生には良いことがあれば、悪いことがあり、幸せだったり、不幸だったり、思い通りに行けば、思い通りに行かない時もありますよね。

どっちかだけってことはありえません。

シーソーみたいなもので、ギッコンがあれば、必ずバッタンがあります。

ギッコンだけがいいとか、バッタンはもういやだ、なんて言えません。

同じシーソーでも、なんで自分の思い通りにならないのかと悩み苦しむか、それがシーソーの原理だと受け入れるかです。

 

道元は「悟りに迷うのが凡夫、煩悩を悟るのが仏だ」といっています。

煩悩を退けて悟りを求めても迷いは深まる一方で、それよりも煩悩のど真ん中で悟ってこそ仏だ、というのです。

でも、「この煩悩の世界のどこに仏がいるんだ?」って思うでしょ。

それがいるんです。

はい、このブックレットを手に取っていただいているあなたのことです。

 

『涅槃経』(ねはんきょう)という経典に

「一切衆生悉有仏性」(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)という言葉があります。

生きるすべての存在には仏としての本性が具わっている、という意味です。なのでズバリ言います。

 

「あなたの正体は仏なんです!」

 

どうです、納得できますか?たぶんできませんよね。

きっとバツが悪そうに「まさか!」「わたしなんて」って言って絶対に認めません。

 

私なんて悩みも欲望も尽きないし、煩悩だらけでなんで仏なのかって疑問に思うでしょう。

でもそれは気づいていないだけの話です。

何かに悩みを抱えているとしたら、仏が悩んでいるんです。

悲しくて泣いているとしたら、仏が泣いているんです。

お金がなくて困っているとしたら、仏が貧乏ヒマなしでなんです。

そう、仏が人生のシーソーをギッコンバッタンやってるんです。

この世界の誰もが例外なく仏なんです。そう思ったら少しは気が楽になりませんか?

 

「え、ならない!」

 

それはきっとシーソーの構造で大切なことを忘れているからです。

シーソーは土台がちゃんと支えているからギッコンバッタンできるんです。それも含めてシーソーです。

その土台こそが私たちの本性である仏性なのではないかなと思うんです。

人生どんなに振り動かされても、それが絶叫マシンみたいなものであっても、常に仏性が支えてくれているのです。

そのおかげでギッコンバッタンさせてもらっているのです。

 

結局のところ悟りというのは、自分を支えてくれている仏性に気づくことなんじゃないでしょうか。

気づかなければ確かに不安ですが、気づかなくても土台は支えてくれているので心配いりません。

私のような心配性は、こんな偉そうなことを書いていながらも自分の人生がどうなるか、

この原稿がボツになるか心配でなりませんが、心配しても心配しなくても、どっちにしても仏性が支えているのです。自分が悟れるかどうか、幸福になれるかどうかなんて、あまり気にしなくても大丈夫なような気がします。

 

幸福って犬のシッポのようなものだと思います。

うちで飼っている犬は時々自分のシッポを追いかけてぐるぐる回るときがありますが、

幸福を追うって、まさにそういうことなんだと思います。

しっかり前を見て進めば、幸福(しっぽ)はかならず後からついてくるんじゃないでしょうかね。

 

 

 

【『天台ブックレット』第81号掲載】

【不許無断転載】

 

 

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