心の鏡
こんな寓話があります。
ひとりの旅人がある村を訪れ、村の長老に
「この村で暮らしたいのですが、ここの村人はどんな人たちでしょうか?」と尋ねました。
長老が「あなたが住んでいた村の人々はどんな人たちでしたか?」と問い返すと、
旅人は「盗人、嘘つき、薄情者、悪人だらけでした」と答えました。
すると長老は「この村も同じ人間ばかりですよ」と言いました。
旅人はその場を去り、二度と戻ってきませんでした。
しばらくして別の旅人がその村に暮らそうとやってきました。
長老が再び「あなたが住んでいた村の人々はどんな人たちでしたか?」と問うと、
旅人は「親切で思いやりと愛情があり、善人ばかりでした」と答えました。
すると長老は「この村も同じ人間ばかりですよ」といって旅人を迎え入れました。
自分をとりまく世の中は同じ環境であっても、自分の心次第で善良にも邪悪にもなるのですね。
こんなひどい世の中まっぴらだなんて不満不平を感じて生きている人もいるかもしれませんが、
それは自分の心が世の中の嫌なものばかりに焦点を当てているということではないでしょうか。
幕末の神道家・黒住宗忠の言葉で「立ち向かう人の心は鏡なり、己が姿をうつしてや見ん」というのがあります。
目の前の現実は自分の心を映し出す鏡のようなものだということです。
「こいつはなんて嫌な奴だ」と思えば、それは自分の心の中の嫌な部分が投影されているのです。
また、「こんな素晴らしい人と出会えてよかった」と思えば、自分の心の中の素晴らしさと出会っているのです。
私も、妻が鬼の形相でこちらを睨んでいるとしたら、私自身の心が鬼なのだと思うように努力します。
人生は水面の波のごとし
人生は波のようなものかもしれません。
波は凪みたいに穏やかな時もあれば、強風で激しくうねる時もあります。
大きくもなったり小さくもなったりします。絶えず変化し、一ところにも止まることはありません。
また波は独立して存在しているわけではありません。
潮の流れや気候など、様々な自然条件によって波の状態は刻々と変わります。
そして波が自分の意志で姿形や方向を変えているわけでもありません。
人生も同じで、様々な縁によって常に変化し続けます。
そして、その変化を自分の思いのままに操ることはできません。
仏教では、そのような人生を
「諸行無常」(あらゆる物事、現象は変化してやむことがない)、
「諸法無我」(すべてのものは独立して存在してない)、
「一切皆苦」(すべてのことは思い通りにならない)と言い表します。
考えてみればあたりまえのことで、誰もが経験上味わっていることですが、
私たちはついそれを忘れてしまい、ままならぬ人生を嘆き、時にはその怒りを他者にぶつけてしまいます。
水面の波は私たちにはどうすることもできません。
荒れ狂う波を穏やかにさせることなど無駄な抵抗です。
それなのに私たちは水面のどこかに穏やかな場所を探し求めてさまよっています。
そしてそれがなかなか見つからず、無力さや恐れを感じて余計穏やかな気持ちでいられなくなってしまうのです。
ただ、一つ忘れていることがあるのではないでしょうか。
波はそのまま海だということです。
水面がいかに荒れていようとも、波が大きかろうが小さかろうが、海は何も変わりません。
水の量が増えたり減ったりすることもありません。ずっとそのままです。
そこにこそ本当の穏やかさがあるのではないでしょうか。仏教ではそれを「涅槃寂静」といいます。
日本を代表する哲学者で禅にも造詣が深かった西田幾多郎がこんな句を残しています。
わが心深き底あり、喜も憂の波もとどかじと思う
この句を作った頃、彼は最愛の妻と長男を病気で亡くし、二人の娘も病に苦しんでいたそうです。
まさに人生の荒波の中で読んだ句といえます。
しかしその心には荒波もとどかない深い底があるのです。
涅槃寂静とは水面の荒波が無くなった状態なのではなく、荒波の真っ只中であっても、
気づきさえすればいつでもともに在るものなのです。
計算したことがないので分かりませんが、
一つ一つ姿の異なる波の高低、大小を数値化して相殺したら、
きっと海は水平になるのではないでしょうか。海からすれば波はゼロということです。
仏教ではあらゆるものが「空」だといいますが、同じことかもしれません。
だからといって人生は虚無だ、無意味だということではありません。
損してもゼロ、得してもゼロ、失敗してもゼロ、成功してもゼロ。
どんな波であろうと、それはそのまま大いなる海として生きているんだ。
そんなふうに考えたら、なんだか気が楽になってきませんかね。
海としての自分の人生が分かっていれば、どんな波が押し寄せても、
「よし来た!」と、その縁を穏やかに引き受けていく心のゆとりがもてそうです。
「同じいのち」を生きている
私たちが波でありながら海を生きているということは、
一見バラバラに見える私たちは一つの存在だということになります。
言い換えれば、同じいのちを生きているということになります。
目の前の嫌いな人も、損得を争うライバルも、戦闘中の敵味方も、本質的にはみんな同じいのちです。
波としては異なる姿として立ち現れ、別々の生き方をしているけれども、何もかもが自分のいのちです。
水面では荒れ狂う嵐の中でエゴとエゴ をぶつけ合って争っていても、
海の底では「いのち」と「いのち」が触れ合っているのです。
その海の底にある穏やかさを見出してこそ、本当の平和が実現できるのではないでしょうか。
こんなことを書いていると、
「こんな物騒な世の中で、今に戦争やテロだってあるかもしれないのに何を能天気なことを言っとるか、この平和ボケ!」なんて声が聞こえてきそうですね。
でも、そういう心の中で戦争が始まるのです。
平和主義のはずが、いつのまにか反平和主義になってしまうのです。
ホント人間って、厄介な存在ですね。
【『天台ブックレット』第77号掲載】
【不許無断転載】