この山門は、昭和26年(1951年)に品川御殿山の原邦造邸から移築されたものです。
銘によると、天保4年(1833年)、元播磨国美嚢郡三木和田の某寺の山門として工匠黒田重兵衛常久、瓦匠勝清の手によって作られたものでしたが、明治33年(1900年)3月、原邦造氏の先代六朗氏の還暦記念に際して邸宅に移され、さらに邦造氏の好意によって圓融寺に移されました。
まさに山門三遷して所を得たといえます。江戸期の建築としては屈指の名門に数えられます。
現在の山門は、平成元年の記念事業として屋根が修復され、袖塀が造築されています。
山門から仁王門へと続く参道。参道の左手には示真殿があります。
参道から階段を登ると、目の前に仁王門があらわれます。仁王門は檜と欅を用いた簡素な構成ながらも、唐風に和風を取り入れ、虹梁、蟇股、懸魚などにも様々な装飾が加えられています。
建立時期ははっきり分かりませんが、永禄2年(1559年)に仁王像が作成されるのとほぼ同時期と考えられます。
ただし江戸時代の寛文期(1661-1672)と永禄期(1688-1703)の間に大改修が行なわれたため、足利時代の面影はほとんど残っていないと思われます。
茅葺きだった屋根は、2007年に銅葺きに改められました。
仁王門の両脇間に安置される木造金剛力士立像は、永禄2年(1559)に鎌倉扇ヶ谷(おうぎがやつ)の権大僧都大蔵法眼によって作られました。
この仁王尊は霊験あらたかなことから江戸時代の庶民の篤い信仰をあつめ、「碑文谷仁王」「黒仁王」など呼ばれて親しまれました。江戸後期の資料によると、行楽をかねて泊りがけで参詣する人や、お堂に篭って断食して祈願する信者もあったようで、当時の繁栄ぶりがうかがえます。
仁王門をくぐると正面に、入母屋造りのたおやかな曲線を描いく屋根をもつ釈迦堂が見えます。
室町初期の建立とされ、東京都区内最古の木造建築として知られています(都内では東村山市の国宝・正福寺地蔵堂に次いで2番目)。
明治44年(1911年)に国の古社寺保存法により国宝に指定され、昭和25年(1950年)に国の重要文化財に指定されました。
本来の屋根は茅葺きでしたが、火災予防の見地から昭和27年(1952年)に銅葺きに改められました。
しかし、唐様建築の手法に和様を取り入れた優美なすがたは今日もなお残されています。
旧本堂の後方に高くそびえる雄大な新本堂は、昭和50年(1975年)の建立で、設計者に佐々木嘉平氏、設計顧問に早稲田大学名誉教授工学博士・田辺泰氏をむかえ、平安朝阿弥陀堂様式に則って建設されました。
いまや圓融寺を代表するシンボル的な建築物で、境内の中でも一際異彩を放っています。
本尊の阿弥陀如来は、仏像彫刻家の第一人者である松本昇氏の会心の作で、日野法界寺の国宝・阿弥陀如来の様式を模して作られました。
大きさは半丈六(約140センチ)で、胎内には経典の他に、発願主である第十八世住職阿純雄の銘と作者の名が納められています。
仁王門に向かって右手に建つ鐘楼は平成元年記念事業で再建されました。
その際、旧鐘楼の屋根の中から木札が発見されました。
それによると、旧鐘楼は寛延四年(1751年)5月24日、中興代五世鑑古和尚の代に再建上棟され、願主は弟子の仏国心浄、助発願主は江戸麹町合羽屋二兵衛、大工棟梁は尾山村原田清右衛門であったことが分かります。
鋳造は寛永20年(1643年)9月、作者は山城国の飯田善兵衛宗次です。高さ151センチ・口径91センチです。
昭和十八年(1943年)に、国の重要美術品に指定されています。
大晦日には除夜の鐘を打つ参拝客でにぎわいます。
仁王門をくぐった左手に、小さな五重塔のような石塔があります。これは圓融寺の前身である日蓮宗法華寺の開基日源上人(~1315)の供養塔です。五重石塔といえば笠石(屋根の形をした石)が重なったような造りのタイプが一般的ですが、この石塔は大変珍しく、軸石と笠石が別々の石で構成され、しかも軸石の一つ一つに高さがあるため、高さ約4.4メートルという雄大な塔身をほこっています。各軸石には上から「妙」「法」「蓮」「華」「経」と刻まれています。
また最下層の軸石には、造立の縁起が記されており、それによると、供養塔の建立時期は、寛永13年(1636年)8月で、遺骨が塵土に託しているのを惜しんで建てられた経緯が刻まれています。この時期は日蓮宗法華寺代十世日瑞上人の頃にあたります。
さらに法華寺が天台宗に改宗されると、この供養塔は再び荒廃がすすみ、文化11年(1814年)7月16日に当寺に参った十方庵釈敬順の記録によると、茫々たる草中に苔むして、上部の三重は崩れて側に転がっていたそうです(『遊歴雑記』より)。
しかし、供養塔の銘文には、同年8月に天台宗法華寺の第14世住職海順法印と村民たちによって再興されたとあるので、釈敬順が訪れた半月ほど後に今日見えるような五重塔に修復されたことが分かります。
昭和55年(1980年)には、目黒区指定文化財になりました。
日源上人五重塔の手前にある大きな石碑は、文化功労賞者の豊道春海(豊道慶中)氏の筆によるものです。中央の「融」の字を○で囲み、右端に「無礙天真」と書かれています。
「圓」は、まるく、あまねく、尽きないという意味で、「融」は、とけこむ、やわらぐという意味があります。また「無礙」とは妨げのないことをいい、「天真」とは天から与えられた人間の純粋な本性のことです。
したがって「圓融無礙天真」とは、天から与えられた人間の自己本来の姿は何事にも妨げられることがなく、大宇宙の中に融け入って自由であるという意味です。
境内のご案内
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