仁王尊とは
「仁王」とは、本来「二王」と書き、二体一具の尊格を意味します。日本では親しみをこめて「仁」の文字であらわされるようになりました。 正式な名称は「金剛力士」といいますが、世の中の悪を打ち砕く金剛杵(vajraヴァジュラ)という武器を手に執り、常に仏さまのそばに仕えてお守りしたことがその名の由来となっています。
インドではもともと単独の尊格でしたが、中国をはじめとする東アジアでは二尊と考えられるようになり、寺院の守り神として、門の左右にその尊像を安置するようになりました。一体は口を開く阿(あ)形尊、もう一体は口を結ぶ吽(うん)形尊で、中国古来の力士のかたちにならって武装形よりも裸形のほうが多く見られます。
「仁王」とは、本来「二王」と書き、二体一具の尊格を意味します。日本では親しみをこめて「仁」の文字であらわされるようになりました。
その性格上、威嚇の表情をあらわにしており、筋肉隆々で力強い風貌をしているので、無病息災の神としても親しまれてきました。また、その脚は太く逞しく表現されているので「健脚の神」としても広く崇拝され、仁王門に大小の草鞋が奉納されているのがよく見受けられます。
黒仁王尊の作者は?
圓融寺の木造金剛力士立像、いわゆる黒仁王尊は、その作者が一体誰なのか、ずっと不明のままでした。
江戸時代の資料によると、開基である慈覚大師の作であるとか、鎌倉時代の運慶または快慶の作であると伝えられていますが、いずれも歴史的な根拠がなく俗説にすぎません。
この仁王像の作者や作成年代が判明したのは、実はごく最近になってのことです。長きにわたって庶民の篤い信仰を得ていた理由から、仁王像の修復はずっと躊躇われてきましたが、昭和42年(1967年)についに解体修理の決断が下され、碑文谷仁王修復協会が設立されました。
その翌年、撥遣(はっけん)式(御魂をぬく儀式)の後に解体作業を行なうと、なんと吽形尊の体内から、圭頭形をした木札が出てきたのです。その木札は、長さ72センチ、上部幅10センチ、下部幅10.5センチ、厚さ0.5センチで、表と裏に銘文が記されていました。そこには、この仁王尊像が日蓮宗時代の法華寺(現、圓融寺)第八世の日厳上人が願主となって永禄2年(1559年)鎌倉扇谷住の権大僧都大蔵法眼によって作られたことがはっきりと記されており、長い間の疑問は一時にして氷解されたのです。
木札発見の翌年の昭和44年(1969年)、この碑文谷黒仁王は東京都の重要文化財に指定されることになり、その歴史的な価値があらためて評価されました。
空前の黒仁王尊ブーム!
江戸初期から中期にかけて最盛期を迎えた法華寺(現、圓融寺)でしたが、幕府による不受不施派の弾圧の中で衰微し、元禄11年(1698年)、第19世日附上人が八丈島に流刑されることによって450年続いた日蓮宗法華寺の歴史は幕を閉じました。再び繁栄の時期がおとずれたのは、天台宗に改宗後のことで、それは黒仁王尊信仰の爆発的なブームによるものでした。
田山花袋の『東京の近郊』には「そこにある仁王尊は、昔は中々の流行佛で、寛政年間には、殆ど道もさりあへぬほど、參拜者があったといふ事が何かの本に書いてあったと覺えている」と書かれていますが、確かに『遊歴雑記』(※1)『過眼録』(※2)『新編武蔵風土記稿』(※3)『江戸名所図会』(※4)『武江年表』(※5)『飛鳥川』などの江戸時代の文献には、法華寺の仁王尊が庶民の篤い信仰をあつめていた様子が語られています。
それらの文献によると、最盛期はおよそ天明年間末から寛政年間末にいたる十二、三年間で、門前には茶店が立ち並び、境内では多くの人々が仁王尊にお線香を供えたり、背負わなければならないほどの大きな草鞋を奉納したりして、大変な賑わいぶりだったようです。
おそらく、物見遊山といわれる郊外散策や旅行が当時の庶民の娯楽の一つとして盛んになったことが、仁王尊の参詣と深く関連していると思われますが、なかには宿願成就を願って夜を徹して断食修行するような熱心な信者も多く、仁王門の周囲にはお籠(こも)り堂が数箇所設けられていたそうです。また、仁王尊の床下は、近年まで断食修行をする人が入れるようになっていました。
江戸から法華寺までの道のりは、昔の単位で二里半余りといわれますが、参詣するために最もよく用いられていたのは品川宿からのルートで、通称「碑文谷道」と呼ばれました。
碑文谷道は、品川宿の南馬場、今の南品川から西にのびている野道で、平塚村(品川区平塚)より下丸子道(中原街道)を横切ると、武蔵の辻(品川区小山二丁目)に出ます。その角には名物の煤団子(すすだんご)を売る店があったので、別称、煤団子の辻ともいいました。この地には仁王尊繁栄期の寛政元年(1789年)に「右 不動尊 左 仁王尊」と刻まれた道標がたてられました。すなわち、目黒不動尊と碑文谷仁王尊の分岐点がちょうどこの辻だったのです。 この道標は昭和31年の道路改修工事のために僅かに移動され、左右の方向が逆になってしまいましたが、今もなお残されており、仁王尊の参拝者で賑わう当時の様子をしのばせてくれます。
(※1)『遊歴雑記』
「武州荏原郡碑文谷法花寺(天台)は、目黒村祐天寺より西南の方二十余町にあり、仁王門は南の耕地を表とし、裏門は北東の方にあり、扨音に聞ゆる仁王尊は長一丈半、慈覚の御作とも運慶の作ともいえり、黒く塗りたるものにて、五体筋骨の様子さのみ勢ひなく痩せたる様に見へ、世上の仁王とは一風替りたるぞ聖りの作ともいふなるべし、(中略)此仁王尊の前に奉納の石灯篭、又は草鞋がけ、線香台等ありて、参詣の人々線香に火を点じて供ずるあり、或は荷ふ程の大草鞋を奉るもありて、色々の人ごころ又面白し、扨本堂といふもの僅に四間に過ず、此北うしろに大榎あり頃しも繁茂し、此樹のまはりに厳重に駒よせしたるは仁王尊の神木にこそ、(中略)扨此寺の仁王門にはあやしの出茶屋戸床几に憩ひ東南の二方を眺望するに、頃しも七月十六日稲のはなは半穂にいでて、田園の風景はいふべき様なく、しばし涼風に汗を納、煎茶数腕を啜して渇を補ひつつ是より奥沢村の九品仏へ罷りぬ。」
(※2)『過眼録』
「安永巳の年よりの間目黒碑文谷の二王流行で参詣多し。」
(※3)『新編武蔵風土記稿』
「二王門 総門の内十五六歩許にあり、四間に三間、左右に金剛の像を安ず、此像は安阿弥快慶の作なり、普通の像よりは甚痩て古色殊勝に見ゆ、長五尺余霊験あらたなりとて、参詣人の宿題(ママ)によりて通夜するものも多し、前に石階あり等数五級、」
(※4)『江戸名所図会』
妙法(ママ)山法華寺 碑文谷にあり。祐天寺の南、半道ばかりにあり。吉祥院と号す。天台宗にして東叡山に属す。本堂本尊は釈迦如来、脇士は文殊・普賢なり。(里諺に、今存する所の堂宇は飛騨匠某が作る所なりといへり。)観音堂(堂の前左の方にあり。本尊は十一面観音の立像にして、参籠の人この堂に通夜す。)榎木(釈迦堂の後、左の垣添にあり。至っての古株なり。当寺開創已来のものなりとて、その本に垣を繞らす。)二王門金剛・密迹の二像は仏工安阿弥の作なりといへり。(霊威尤も著きが故に、世人尊信す。いかなる故にや、寛政紀元の年己酉の頃より、後十二年ばかりの間霊験者として、頻りに都下の人郡参して道もさりあへざりしが、いつしかその事止みたり。)当寺、その先は慈覚大師の開創にして、天台宗の古刹なりしが、後日蓮の宗化に帰し、日源上人中興開基たり。つひに元禄に至り旧貫に復し、元の天台宗を唱ふ。(今堀内妙法寺に安置せし日蓮大士の像は、当寺よりうつすといへり。)境内桜・楓の二樹多く、春秋共に頗る壮観たり。」
(※5)『武江年表』寛政元年の条
「天明七、八年のころより、碑文谷法華寺の仁王尊諸願成就するよしにて、貴賎男女参詣する事あり、次第に群集夥しかりしが、十二年ばかりにして絶えたり(祈願の者断食をして籠る。又日参等もありし)。」
文学作品にみえる黒仁王尊
碑文谷仁王尊を題材にした文学作品は多くありますが、特に黄表紙(きびょうし)といわれる戯作に、仁王尊を信仰する江戸庶民の姿がじつに軽妙洒脱に生き生きと描き出されています。
黄表紙とは、草双紙(くさぞうし)といわれる絵本のジャンルの一つで、いわば大人向けの漫画というべきものです。江戸時代中期以降に流行し、内容は洗練された洒落を重視し、言葉遣いや絵の随所に工夫を凝らした遊び心があり、それを読み解くところに楽しさがありました。体裁は美濃紙半裁二つ折りで、5丁(10頁)を1冊とし、2、3冊で一部となり、表紙が黄色であったことから、黄表紙といわれるようになりました。
碑文谷仁王を題材にした代表的な作品には、山東京伝『碑文谷利生四竹節』、芝全交『願解而下紐哉拝寿仁王参』、噺本では石部琴好『比文谷噺』(栄松斎長喜画)、振鷺亭『室の梅』(『乗合船』を改題補足した本)などがあります。
『碑文谷利生四竹節』(ひもんやりしょうよつだけぶし) 山東京伝作 寛政元年(1789年)
言わずと知れた山東京伝(1761-1816)の作品です。彼の本名は岩瀬醒、深川の質屋の生まれで、若くして浮世絵師・北尾重政に師事し、北尾重寅の名で黄表紙の挿絵などを書いていましたが、後に山東京伝と号して黄表紙や洒落本の作品を数多く世に出しました。彼の出世作は天明五年(1785年)の黄表紙『江戸生艶気樺焼』(えどうまれうわきのかばやき)で、これによって売れっ子作家としての道を歩みました。
彼の名を一躍有名にしたこの黄表紙は、艶二郎という己惚れ者が自分の浮名を立てようとするも、つぎつぎと滑稽な失敗をしでかしてしまうという内容ですが、これが大評判となって、艶二郎ブームともいえる現象がおこりました。この人気ぶりをうけて、さらに二代目「艶二郎」として登場したのが「艶太郎」で、彼を主人公とする作品が『碑文谷利生四竹節』です。
ここで簡単に内容を紹介すると、艶太郎は生来の醜男なため、女性にもてない悲しさから碑文谷の仁王尊に祈願をすると、美男子の仮面を授かりました。かくて仮面をかぶり変身した彼は、質両替屋の娘に惚れられて婿となります。ところが、もともと好色であったため、女郎通いに明け暮れて、家にも帰らず多くの女性と浮名を流します。これではあんまりだと嫉妬に駆られて大癇癪をおこした女房は、たまたま帰ってきた艶太郎の胸ぐらをつかんでこずきまわすと、その拍子に仮面がポロリと落ち、艶太郎はもとの醜い姿に戻ってしまいます。こうして女房にも追い出され、懇意にしていた女性からも嫌われた艶太郎は身のほどを悟り、仁王尊から授かった竹筒を二つに割って拍子笛に変え、四竹節(二個の竹片をカスタネットのように打ち鳴らしながらうたう唄)の流しで渡世する、という粗筋です。まるで最近のコメディー映画にでもありそうな愉快な内容です。
『願解而下紐哉拝寿仁王参』(ねがいはとけてしたひもやおがみおんすにおうさん) 芝全交作 寛政元年(1789年)
芝全交(1750-1793)は、本名、山本藤十郎といい、芝の西久保神谷町(東京都港区)に住んでいたことから、芝と称しました。大蔵流の狂言師でもありました。二十歳のときに書いた『時花兮鶸茶曾我』が処女作で、以後、約40種の黄表紙を世に残しました。抜群の滑稽センスがあり、数々のヒット作が生まれました。その中の一つが『願解而下紐哉拝寿仁王参』です。この作品は上記の山東京伝『碑文谷利生四竹節』と同じく寛政元年の出版です。
芝全交の文はいたって軽妙洒脱で、『願解而下紐哉拝寿仁王参』という書名からして趣向が凝らされています。まず角書の「願解而下紐哉」ですが、「願いを解く」は「解く」と腰巻を意味する「下紐」とを通じさせて、「紐哉」は碑文谷の語呂合わせです。また『拝寿仁王参』は碑文谷仁王を参詣するという意味ですが、同時に、吉原の遊女が哀願するときに使う「拝みんす」という遊女詞とも通じていて、遊女が仁王尊に哀願しているようなユーモラスな言い回しになっています。
本文にいたっては、語呂合わせ尽くしの 縁起文(※) にはじまり、痩せたいと願う芸者や、腎虚で悩む男性、梅毒で鼻が落ちた女郎など、一癖も二癖もある人々が次々と登場して、どんな願い事でもかなえてくれると評判の仁王尊にすがり、それをまた仁王尊のほうも、なんとかしてあげようとあれこれ智慧を出して奮闘する、という内容が実に軽妙かつ滑稽に書かれています。
挿絵は浮世絵師・北尾政美によるもので、芝全交の文章にマッチした生き生きと臨場感あふれる筆で仁王尊や江戸の人々の姿が描かれています。 この黄表紙は出版されるや大評判となり、式亭三馬によって名作二十三部の中の一つにも選ばれました。
(※)仁王尊文尽略縁起
仰 仏法守護の 仁王尊といっぱ、 辱も、 大仏銭(※)の 一文にして、 二文とわかれ、 仁王と 現じ、 三文の 鉄網(※)に 住で、 終に 四文谷の五文ばん(※)とならせ 給ふ。 故に、 六文の 光岸寺(※)を 灯し、 七文の 御備を 供じ、 八文のかたどり(※)、 八日を 縁日とし、 九文龍(※)が 如く、 裸にてつっ 立給ふ。 十文(※)の 草鞋、十一文の 足袋にても 御足にちいさきとの 御戯事、 ?十二文の 御足を 御捻となし、 賽銭に 投打て、 信心 不怠事、 等ト云 とうみゃうせんをあげさっせいませう
ずっと酉のとしのなんでも正月
芝全交坊
執事[観化]
(※) 【仁王尊文尽略縁起】 :碑文谷仁王尊の縁起を文字尽くしで記す。
(※) 【大仏銭】 :京都方広寺の大仏を改鋳して造った寛永通宝のこと。
(※) 【鉄網】 :山門の金網張り。仁王尊が安置される場所を意味する。
(※) 【四文谷の五文ばん】 :碑文谷の御門番のこと。
(※) 【光岸寺】 :仰願寺蝋燭。江戸浅草の山谷にあった仰願寺の住職が
京橋一丁目越前屋九郎右衛門にあつらえさせた仏前などに灯す小さい蝋燭。
(※) 【八文のかたどり】 :形代。体を撫でて身のけがれや禍いを移し、
川や海に流して祈願する人形の紙のこと。
(※) 【九文龍】 :当時人気のあった力士九紋龍清吉のこと。
(※) 【十二文】 :銭十二文は神仏への賽銭の相場。